●内容と形式、フイルムとデジタル
−−今回Phase OneのカメラとデジタルバックIQ180を使われて、デジタルカメラに関するご感想をお聞かせ願えますか。
畠山 これは本当に複雑なことですね。まず、私にとって写真のどこが関心事なのかを考えていかないと、上手く答えられないですね。私は近代の写真史を学んで、主に近代の写真芸術に興味があって、写真の活動をしています。でも人によっては、そういうことに関心がなくて、自分の好きなものが写真に写っていれば、それで幸せなこともあります。私自身は、写真術の形式とかメディウム性に昔から関心がありました。写真は2方面から考えることができます。大きく言って「内容」と「形式」です。すべてがこのように2つの方面から考えることができますけれど。
−−それは「被写体」と「道具」の関係のようなことですか?
畠山 そうですね、女性をモデルにした写真を見て、漠然ときれいだなと思うことがあります。その時に彼女自身がきれいなのか、この写真だからそうなのかは簡単に説明できませんよね。私が学校で学んだのは、ただ写っているものを見るのではなくて、写真という形式とかメディウムとかを意識しつつ写真を見ることです。そういう考え方は当時は非常に強かったし、面白いことだったんですね。俗に「写真とは何か?」と、存在論的に写真を考えるときにも、形式やメディウム性を考慮に入れていますよ。写真を見て「きれいな人ですね」とか感想を言ったら、意識のあるカメラマンならムッとして「そうじゃなくて、写真としてどうなんですか?」と聞いてくるでしょう? あれが証拠です。
きちんと分析しながら考えることが楽しいと思える人はそれほど多くないでしょうが、1980年代以降の写真ブームを下で支えていたのは、このような知的な楽しみ方ではなかったでしょうか。
ところが、実際には1枚の写真を「内容」と「形式」に分けて見ることは難しいのです。写真は両方が混ざり合ってできています。片方だけをとやかく言うのは片手落ちと言わざるを得ない。かといって多くのナイーブな人たちのように、写真に写っている猫や女優さん、富士山、そういう内容の世界だけに没入して楽しむことは私にはできない。
「内容」と「形式」の両方が渾然一体としている体験自体は自然なことと言えるのですが、いざ写真を語ろうとするとそれでは難しくなる。私はできるだけ整理して写真全体のことを考えたいので、関心の比重を「形式」の方に置いているのです。それでいままで、フィルム、ペーパーなどの素材を基本にして、形式に対する考え方を実践的に行ってきたわけですが、デジタルは素材が変わるのですから、考え方も変わらざるを得ない。
ただし、「きれいな人ですね」の世界は何も変わらない。「内容」しか見ない人たちには、銀塩だろうが、デジタルだろうが関係がない。でも私はそっちに与しません。近代写真芸術の隆盛、ブームを作ったベースを考えたい。
−−畠山さんのおっしゃるメディウム、形式とは具体的にフィルム、印画紙といったことなんですか?
畠山 一言でいえば、シンプルな化学、物理学。光や物質といった19世紀的科学とその周辺の素材です。珍しいことに写真というメディウムは、19世紀に発明されたときとあまり変わらないまま150年以上経ています。私はその中で考えることに慣れています。落ち着いて写真という全体を眺めながら、黙って考えるような体験が好きなのです。
−−デジタルに関しては否定派ですか?
畠山 今、写真が情報技術や通信技術と結びついて、デジタルメディアと複数形で呼ばれるようになってきたときに、まずプリントをどうしようかという問題があります。プリントは必要なものではなくなってきているでしょう。デジタルカメラで撮影して、パソコンで確認して色などを調整し、それを完成品として誰かにメールで送る。あるいは原稿としてアップロードする。それでおしまいです。もうプリントにする必要がない。となると、ギャラリーで額に入れて写真を展示する、あるいは美術館がオリジナルプリントを収集する、そういった習慣がひょっとしたら過去のものに見えてくる可能性があります。
データの状態が完成品というのであれば、プリントはあえて作るものになってきます。従来のように自然に生まれるものではなくなってくる。これは本当に大きな出来事ですね。
1970年代から1980年代にオリジナルプリントがブームになった背景には、印刷物でしか写真を見たことのなかった人たちが、オリジナルプリントの存在に気がついたということがあります。雑誌などで見た有名な写真には実は紙焼きがあった。それがマーケットに出てきたわけです。例えばアンリ・カルティエ=ブレッソンの焼いたオリジナルプリントが出てくれば欲しくなる。モノとしての写真プリントの存在が、写真ブームを招いた最初の出来事ですね。ところが今後写真がデジタルメディアになってくると、プリントは最終形でなくなるので、従来の写真の有り様とは違ってきます。「あの有名な写真のオリジナル」はプリントではなくデータでした、という話ですから。
プリントを前提としないで撮影された写真からナイーブに制作されたプリントというものには、あまり見る意義を感じないんですね。逆に、あえてプリントを作るためにデジタルカメラを一生懸命使っているとしたら、テクノロジーの使用法としてはアナクロな印象が拭えない。非常に難しいことになってきているのではないでしょうか。
−−デジタルカメラで撮って銀塩印画紙に焼いて作品にする作家さんもいらっしゃると思いますが。
畠山 ラムダプリントとかですね、私も使っています。
−−これは本流ではない?
畠山 フィルムをスキャンしてラムダプリントを作る作業はよく行っています。そういった意味で私自身も潔癖なアナログ派ではないのですが、ただ、作品をプリントとして見せるのであれば、原則論としてフィルムとペーパーが基本だとは思います。でも、だから私はデジタルは絶対使わないということではないです(笑)。ラムダプリントもそうですが、弱くなったネガをPhotoshopで補正することもあります。
デジタルベースの仕事になりますと、撮ったその日に納品なんて話が当たり前になってきています。写真をめぐる時間の流れが10年前とぜんぜん違います。昔ながらの写真家にはすごいストレスになるでしょうね。それと撮影からパソコン作業(現像)、レタッチなど写真家の仕事量が増えてきて、分業しないと成り立たなくなってきています。撮った写真の管理も難しくなってきました。
●プリントにこだわる
−−デジタルワークフローによって、アナログでは実現できなかった写真表現も可能になりました、その辺はどのように評価されるのでしょうか。
畠山 これもジレンマがありますね。例えば今回のパノラマ作品はIQ180とPhotoshopだから可能だった。これは私の実力ではないんですよ(笑)。カメラマンの実力で作られた作品とは違う話なんですね。ムービーの世界の人たちも言っていますが、道具、つまりカネによってグレードの差が生まれてきています。
−−それはフィルムも35mmからブローニー、シートとグレードが分かれています。
畠山 価格で考えるとデジタル機器の方が幅が広いですね。
−−フィルムのランニングコストとの計算もあります。フィルム代、現像代を考えますと1,000枚撮れば約120万円掛かります。そうであれば、デジタルバックの導入コストも3,000枚撮れば回収できるわけです。
畠山 それだけたくさん仕事があればいいですけれど(笑)。確かにガンガンに仕事しているカメラマンにはデジタルバックはいいと思います。元が取れるでしょうね。
−−今後、フィルムとデジタルの間を行ったりきたりするおつもりはありますか
畠山 場合に応じて、使わざるを得ないでしょうね。
−− それは作品作りに関してもですか?
畠山 最終的にプリント、というスタイルにこだわらず、その道具に相応しい発表の仕方があれば、デジタルカメラでもいいのかなとは思います、私は天邪鬼的なところがありますから。でもそれ以前に考えておかなければならないのは、例えばIQ180にシュナイダーのレンズを付けて、1ショットできれいな写真を撮るということでも、面白いものと退屈なものはあるわけです。どうしてハイエンドの機械を使っても面白い作品と退屈な作品が生まれてしまうのか。それはたぶんデジタル、アナログの議論を含めつつ、もうちょっとそれを超えたところにある古典的な問題だと思います。
それとIQ180で撮影して感じたのは、カメラにはもっと時代にふさわしいデザインがあるんじゃないかということ。例えばIQ180のタッチスクリーンはすごくシンプルで良くできていますが、カメラ本体はまだ伝統的なデザインでしょう。過去のカメラのイメージを一度ご破算にすることはできないんですかね? まあ、他のデジタル一眼のボタンの煩雑さに較べたら素晴らしいのですが(笑)。
デジタルメディアとしての写真というのは、ここ20年以上、世界中で大きな議論になっています。世界が徐々に変わっていくように、デジタルフォトグラフィーに関する考え方もじわじわと変わってきていますよね。世代によってはフィルムを知りませんから。ネイティブなデジタル世代が出てきています。
そういった現状に比べて、フィルムで仕事することは今や、良くも悪くも貴族的な印象がありますよね。没落貴族かもしれませんが(笑)。
−−ありがとうございました。
ヴェネチア・ビエンナーレで
日本館が金獅子賞を受賞!
2012年8月29日、「第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」で日本館の展示「ここに、建築は、可能か」が金獅子賞を受賞した。受賞理由として「この人間味溢れたプロジェクトに感銘を受けた。プレゼンテーションとその語り口が特徴的で、多くの観客にとって非常に親しみやすいものであった」と審査員は述べている。ヴェネチアから帰国されたばかりの畠山直哉さんに、さっそく、現地での受賞の様子などを語っていただいた。
●金獅子賞について
8月28日が日本館のオープニングで、翌29日が授賞式でした。今回のヴェネチア・ビエンナーレの全体テーマは「Common Ground」、共通の場ということでしたので、「みんなの家」の受賞は、そのテーマに最もふさわしかったということでしょうか。Common Groundという言葉には、先鋭的な作家性、作品性というより、もう少しベーシックな、建築における共通の場っていったいどんなものでしたっけ? というニュアンスがあります。日本館の展示は、正にもっと基本的な建築とは何かを考えたものです。審査員の皆さんは「ヒューマニティ、人間性」という言葉で「みんなの家」を評価していました。
●日本館の様子
日本館の来場者の皆さんには、個々の模型、作品というより、プロジェクト全体に対して非常にシンパシーを持って、熱心に観ていただけました。会場内は壁四方にパノラマ写真を貼りました。まるで陸前高田にいるようでしたから、リアリティはあったと思います。そもそもパノラマ館は極端なレベルのイリュージョンを浮かび上がらせるものですから、その役割は果たせたと思います。
壁のパノラマ写真には照明は当てず、模型中心にライティングしました。建築家たちと壁の照明はどうしようかという話になったのですけれど、私はいらないと言いました。テーマは「みんなの家」ですから、メインの展示物の模型にライトを当てて、反射する光で壁が見えるようにしました。
そして展示の1つとして、私が撮影した陸前高田の震災前と震災後の写真を、壁に埋め込んだモニターでスライドショーで展示しました。私の写真が役に立ったと信じたいです。
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