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Designデザイン

Interview

自分が何を行うべきか、行いたいのか? ナニが得意で、ナニが出来ないのか? そういう自己分析とか自分プロデュースできる人は強いんじゃないでしょうか。

うもとゆーじ

CG Creator

うもとゆーじ/ウサギ王

最近ではNHKのTVアニメ「がんばれ!ルルロロ」の監督を務めた、ウサギ王のうもとゆーじ氏に話を聞いた。ウサギ王は、可愛いキャラクターによるコンテンツを制作するクリエイティブチームだが、代表のうもとゆーじ氏はCGクリエイターとして、1990年代から20年以上、ゲーム、映像、Webなどさまざまなフィールドで活躍している。うもと氏の飾らない言葉は、これから絵や映像の世界を目指す人には、大いに参考になるだろう。

うもとゆーじ。ウサギ王株式会社代表取締役。ゲーム制作会社、デザイン会社マルチメディア部門を経て独立。ウサギ王では主にお話と企画、動画、音楽などの部分や突飛なアイデアの担当。最近の仕事は「NHKアニメワールド がんばれ!ルルロロ」など。著書に「Lightwave☆Beginners」などがある。
http://usagiou.net/

10代の頃の興味や影響を受けたクリエイター
--学生の頃はどんな少年でした? やはり絵は好きでしたか?
うもと : みんなと変わらないですよ。漫画大好きで、めちゃめちゃ読んでいました。ヤマトやスターウォーズは小学生の頃に盛り上がっていました。

少し遅れたガンダム世代で、はっきり覚えているのが、中学の終わり頃、本屋で手に取ったのが「月刊OUT」というアニメ雑誌で、そこでガンダムも取り上げられてて、「こういうのがあるんだ…」と興味を持って、ガンダムは再放送から見ました。1980年頃ですね。アニメや特撮モノは一時期断絶しててそれほど見ていないかもしれません。

漫画は少年ジャンプや少年チャンピオンなどの週刊誌も読んでいましたが、はまったのが漫画情報誌の「ぱふ」でした。ちょうど24年組(萩尾望都や竹宮惠子、大島弓子など)と呼ばれた世代や、ニューウェーブと呼ばれる世代の漫画家がわーっと出てきた頃です。まさに先日まで放映していた深夜ドラマ「アオイホノオ」の時代ですよね。あの時代が僕の中学~高校の頃のリアルタイムでした。

高橋留美子、いしかわじゅん、大友克洋、諸星大二郎、吾妻ひでお、などなど漫画だけは大量買ってて、読みあさっていました。もう少し上の世代だったらガロやCOMを読んでいたかもしれません(笑)。当時はネットがなかったので、知らない世界はすべて雑誌から情報を得ていました。はじめに「月刊OUT」を手に取ってしまったのがダメでした。あれでアンダーグラウンドに行く道だったんだなと(笑)。

でも、メジャー系の漫画でも、鴨川つばめの「マカロニほうれん荘」と江口寿史の「すすめ!!パイレーツ」は大好きでした。2人ともロックネタが多くて、そこから音楽に入りました。当時パンク、ニューウェーブ、テクノの時代で、自分の小遣いで一番最初に買ったのはYMOの1stでした。それも「すすめ!!パイレーツ」にYMOが出ていたからという影響です(笑)。

洋楽もニューウェーブから、ディスコ系、フュージョンなどいろいろ聴きました。でも高校では友だちみんなメタルを聴いていて、自分も大学時代はメタルバンドでボーカル、キーボードなどを担当していました。

漫画の方も、模写はたくさん描いていました。江口寿史が他の漫画家のタッチを真似してよく描いていたので、ジブンも大島弓子とか萩尾望都とか真似していました。高校生の頃、お昼ごはん代として毎日500円もらえたので、昼飯を5日我慢するとレコードが買えて、1日我慢すれば漫画の単行本が買えました。漫画とレコードばかり買っていましたね。

自分はいわゆる、クラスで2番目に絵が上手いタイプでしたので、一番うまい人はちゃんと美大に行っています。そもそも僕は絵も音楽もそこそこできますが、一番というより常にそこそこ止まりのタイプなんです(笑)。
--漫画と音楽が好きだったということは、三つ子の魂百までと言いますが、現在と変わらないですね。
うもと : ぜんぜん変わらないです。ヤバイすよ(笑)。いまだに変わらないですからね。
--大学時代はいかがでした?
うもと : :高校の時、美大受験というのがぜんぜん分からなくて、教えてくれる人も周りにいなかったので、とりあえず造形大の学校説明会に行ったら「特別な勉強はいりません」と言われて…今思えばまったくそんなわけはないのですが(笑)、平面構成も知らずにぶっつけ本番で入学試験を受けて、当然落ちて結局一浪して東海大学の数理経済学部に入りました。

大学時代は専攻した学部が全然自分に合わず、軽音楽部にいたので授業には出ないで、部室直行の毎日でした(笑)。結局大学は卒業していないのですが、当時バイトしていたレンタルビデオ屋さんに就職しようかくらいに思っていました。1年くらい店長を務めたのですが、その時代はアニメもOVAが全盛で多く揃っていて、映画の新作含め、片っ端からビデオを見てました。仕事が終わって、帰宅せず、そのまま朝までビデオを見ているような生活でした。まだDVDではなくVHSでした。それが1990年代初期です。

大学では軽音楽部に所属していたので、当時はミュージシャンになって音楽で食べていければいいなと思ってました。今でも仕事では、打ち込み系で音楽を作っています。
ゲーム会社に就職
--大学を中退して、ビデオ屋さんの店長だった当時、クリエイターになるという夢はお持ちだったんですか?
うもと : はい、なぜか根拠なくクリエイターになれると思っていましたので。ちょうどファミコンのゲームが流行り始めた頃です。勤務先のレンタルビデオ屋は神奈川県の橋本にあったのですが、その周辺は造形大、多摩美術大学、女子美術大学など美大が多く、同じお店の美大の学生バイト仲間とも友だちになるのですが、当時の美大生は、画面の解像度が低かったせいか、ファミコンにはあまり興味を示さなかったですね。

僕自身は、ファミコンには音楽と絵が両方あるので、ゲームいいなと思い始めていました。そこで東京・町田にあるゲーム会社エーアイの入社試験に応募したら合格できて、そこからですね。そこではファミコンゲームのグラフィックスでドットを打つ仕事をしていました。

とはいってもファミコンはまだ表現力が低かったので、僕自身は物足りなさを感じていました。何しろ入社時の面接で、デザインの現場やスタジオボイスに載るようなゲームを作りたいと言っていたので(笑)。ですから、1995年に発売されたワープの飯野賢治による「Dの食卓」は、いいなあと思いましたね。
--ゲームからキャリアをスタートされましたが、当時から絵と音楽、映像が一体になったクリエイティブを志向されていたのですか。
うもと : 「新しい何かがやりたい」という気持ちでしたね。当時のファミコンを取り巻く状況は、今でいうと初期のDeNAとかGREEがやっていた携帯ゲームの立ち上がり時期に似ていたかもしれません。ですから、いつの時代もチャンスはめぐってくるのかなと思います。
--ファミコンのゲーム制作だけでは物足りなくなって、次の展開も考えていたのですか?
うもと : 会社ではオリジナルゲームではなく移植ゲームが多かったこともありますが、ゲームのグラフィックス制作がホントにつまらなくて(笑)。もう古株になりつつあったのですが、無断欠勤連続の、会社に行かない不良社員になってしまい、首にされる話も数回出ていたみたいです。その度にもう少し様子を見ようと、助けてくれた先輩がいて救われていました。

当時使っていたパソコンはNECのPC-9801で、そこに専用のグラフィックスボードを差してゲームの開発環境を作っていましたが、Windows3.1が登場して、DOS/Vマシンが主流になってきました。同時にマルチメディアが盛んに言われ、「Director」というオーサリングソフトも登場しました。テレビ番組の「ウゴウゴルーガ」にすごく影響され、その番組がAmigaというマシンで作っていると聞き、「あ、これからは音も絵もできて、やりたいことが自分でなんでもできる時代なんだ」と思いました。

そこでゲートウェイのWindowsマシンにDirectorとPhotoshopを入れて会社に持ち込んで、仕事しないでDirectorばかりやっていました(笑)。「これだ!」って感じでしたね。

ちょうど、シナジー幾何学の「GADGET」とか、ローファイで緩いテイストの「るじろむ」など、初期のマルチメディアタイトルが出始めた頃です。ゲームは「バーチャファイター」が出る直前、「バーチャレーシング」とか出てきてグラフィックがドットからポリゴンへの転換期で、次のプラットフォームはNINTENDO64と言われていましたね。

ウゴウゴルーガは熱心に見ていましたから、ああいう3Dグラフィックがやりたくて、会社にはシリコングラフィックスのUNIXマシン「Indy」とニチメングラフィックスのソフト「N-World」があったのですが、よく分からなくて自分のWindowsマシンで動く10万円以下の3D CGソフトを探しました。

「SoftFX」「カリガリトゥルースペース」など買いましたけれど、最終的に「Lightwave」が気に入りました。Lightwaveは、当時、神奈川県・相模大野にあったパルテアで買いました。まだネットがそんなには普及していない当時、ここはCGクリエイターの情報交換の場としてにぎわっていました。ちなみにパルテアは、今は鵠沼海岸駅前に移転しています。
Lightwaveとの日々
--Lightwaveを使い始めて、いよいよ3D CGクリエイターとして活躍されるわけですね。
うもと : まだエーアイにいて、当時はグラフィックスチームのチーフになろうかとしていました。ただ、そろそろ次の展開がしたくて、Directorや3D CGができるマルチメディア系の会社を探していました。そこで東京・飯田橋の別の会社に転職したのですが、1年くらい経って、エーアイの先輩が新しくオリジナルタイトルのゲームを作る会社を立ち上げるということで、そこに合流しました。それが1998年頃です。そこではPlayStation用の音楽ゲームなどを作りはじめました。
--クリエイターとしての作家性が出せるようになったのはその頃からですか?
うもと : そうですね。それまではやりたいことがあってもできない時代が続いていました。やりたいことができないから、熱意がない、熱意がないから仕事がダラける…という超最悪のパターンでしたよね(笑)。ともかく新しいことがすごくやりたかった。ウゴウゴルーガの影響はホント大きかったです。

新会社では、エニックスさまの依頼でPlayStation用のオリジナル音楽ゲーム「うたうた・ウ~」を作りました。当時のエニックスは、秋元きつねさんの「せがれいじり」、森川幸人さんの「アストロノーカ」、田中秀幸さんの「バストアムーブ」など、ウゴウゴルーガで活躍してた作家さんがたくさん仕事していましたね。「パラッパラッパー」「クーロンズ・ゲート-九龍風水傳-」とか、野心的なゲームが作れる時代でした。こういうのがやりたかった!っ感じでした(笑)。

個人的に「moon」「UFO - A day in the life- 」「L.O.L.~LACK OF LOVE~」など、ラブデリック(LOVEdeLIC)のゲームがすごく好きで、自分の作ったゲームが雑誌のレビューでラブデリックぽいとか書かれて嬉しかったおぼえがあります(笑)。
--音楽ゲームは原案から考えたのですか? アイデアと音楽とグラフィックとすべて持っていないと作れないですよね。
うもと : そうですね、音楽を耳コピして音の上下を判断していくゲームの「うたうたウ~」は、原案から作っています。そのゲームは評判がよかったわりに大きく売れたわけではないのですが、同業の友人から「うもさんのゲーム、斬新だったから参考にされてたよ」という話をよくされました。
--音楽もゲームも精通していないと新しいものはできないですし、今までやれなかったことが、ようやく実現できた感じですか。
うもと : そうですね。まず新しいことがやりたくて企画して、次にかわいくてゆるいキャラクターを作って、1人ではすべて制作できないから、知り合ったLightwaveのCGクリエイターの友人たちに助けて手伝ってもらって…という、今につながる製作手法の原型といいますか、やはり処女作にはすべてがあるのかもしれません(笑)。
--それが2000年頃ですよね。その後アニメーションの制作など、ゲームから少し離れた仕事もされていますよね。
うもと : そうですね、うちウサギ王には内部にプログラマーがいないですし、ゲーム開発にはソニーから権利もらって開発機材に投資しなければならないので、会社でないと敷居が高いんですね。ただ、最近は開発環境のUnityとか出てきたので、インディーズでゲーム作るなら今はよい時期かと思いますけど。

あと、ゲームの制作中、開発資金の管理などもしてて、それですごく疲れた時期がありました。ジブンの会社じゃないのになんでこんな苦労してるんだろうって。会社にお金がなくて開発費からスタッフの給料を払ったら、自分の給料分がなくて、自分は専門学校の講師料と雑誌の原稿料で生きてたこともありました(笑)。そんなこともあって、ジブンのゲーム開発が終わってからは、「サルゲッチュ」のムービーパートなど友人知人のお仕事のお手伝いをやってました。

その後、縁あってGONZOさんの3D CGディレクターの鈴木朗さんに誘われて、そこでCGアニメーションの制作を行いました。「ヴァンドレッド」というテレビアニメでしたけれど、3次元でサイボーグ009などを手がけた鈴木大介さんやグラフィニカ(3D CG担当部署)の白井宏旨さんの仕事っぷりを見て「あ、コレは違う。たぶんジブンじゃダメだ」と思いました(笑)。

自分自身アニメは好きで、ガンダム、ダンバイン、エルガイム、イデオンあたりは見てたんですけど、その後マクロス見た時どうもあわなくて、ソレ以降アニメを断絶してた時期があるんです。僕より5歳くらい下の世代のアニメの人は血の中に「板野サーカス(アニメーター板野一郎による戦闘演出)」が入っているんですよ。ジブンが板野サーカスの演出を行うと何回も考えながら作るんですけれど、下の世代はナチュラルにできてしまう。そこで自分はこの世界じゃないんだと思って。

個人的には、板野サーカスやドラゴン飛ばすとか、もう全然ダメですね(笑)。リアルなエフェクト、ボクセルとかパーティクルはもう重くて辛いです(笑)。今の3DのCGのお仕事はハリウッドスタイルで高度に分業化しているじゃないですか。複雑なスクリプトやノード組んで追い込んでとか。話としては分かるけれど、やってと言われればもう多分無理ですね。できてもそこそこじゃないですかね(笑)。
--実際、うもとさんのイメージはリアル系ではなく、「可愛い系キャラ」ですよね?(笑)
うもと : ちょうどその頃、CGクリエイターブームが来て、テレビでも「D’s Garage 21」という番組でデジタルフィギュア四天王(由水桂、ソネオカ大志、羽田宗春、ハヤシヒロミ)とか、取り上げていました。でもジブンはそういうのに今一つ興味がもてなくて。なにせ「ウゴウゴルーガ」に影響された人ですし(笑)。

うちにもテレビ局が取材に来て、その番組に出演してた方がうちの作品のキャラクターを気に入られて、avex networkさまで3Dデスクトップアプリを作りたいという話をいただきました。そこでまたオリジナルが作れることになったので、GONZOを離れて、avex networkさまとの仕事を始めました。それが2000年のことです。

これはイスラエルのデスクトップアプリを、かわいいキャラクターナビゲーションでローカライズする仕事で、ネイティブでネットにつながってサーバーから情報をプッシュしてくるという仕組みでした。それらデータの扱いを3D空間で表示されたPCのデスクトップで行う野心的な計画でした。それは楽しかったですけれど、当時のネット環境では重くて厳しかったですね。この計画はいろいろあって結局うまくいかなかったのですが、その時、キャラクタービジネスとマ-チャンダイズ、マーケティングの方法を勉強させてもらいました。

avex networkのデスクトップアプリ「エポケ」01。

avex networkのデスクトップアプリ「エポケ」02。

--そこから会社化ですか? 当時、美少女CGなどのCGクリエイターのブームが去って、3D CGによるクリエイティブは個人の作家活動というより映画や映像制作の1生産部門的ポジションになっていったと思います。そういった中で、うもとさんをはじめ、CGクリエイターの皆さんは現在に至るまでどのような活動をされてきたのでしょうか?
うもと : そうですね、ジブンはフリーランスで「ウサギ王」という屋号で活動してて、なんだかんだで2008年に法人化しました。自分には美少女やリアル系の3DCGはできないなと思って、あまり他人がやってない「かわいい」を押し出したモノを作ろうとしていました。それで、そういう映像を作る作家さんとともに「PIX」というDVDレーベルを立ち上げました。第4号まで作ったのですが、その後ネット環境が良くなってYoutubeが出てきたので、DVDの役割も終わったかなと思い終了させました。その後はディー・エル・イーさま、ファンワークスさまからなど、さまざまなところからのアニメーションの仕事を行っています。

ウサギ王ブランドでのDVD展開「PIX」01。

ウサギ王ブランドでのDVD展開「PIX」 02。

--仕事の広がりはやはり人のネットワークですか?
うもと : そうですね、アニメフェアに毎年出展していたのですけれど、そこでいろいろな方と知り合って、イマジカさまや日本アニメーションさまの仕事につながってきました。日本アニメーションさまの「カルルとふしぎな塔」は、担当の方と知り合って4年くらいしてからいただいた話です。これもIKIFさん、由水桂さんの会社ケイカとか、知り合いにお願いしてチームを組んで24話製作しました。そこからどんどん、ショートで可愛い系のアニメの仕事が増えてきましたね。
--うもとさんの仕事ベスト3はなんでしょうか。
うもと : 「カルルとふしぎな塔」はターニングポイントでした。自由にやらせていただきました。それとavex networkの「エポケ」は勉強になりました。そしてやっぱり「うたうた・ウ~」この3つですね。

「カルルとふしぎな塔」より。

「がんばれ!ルルロロ」より。

--うもとさんの資質として、監督の立場と、プレイヤーとして作品のディテールにこだわるのでは、どちらに向いていますか?
うもと : 圧倒的に監督というか、他人と組んで行う仕事が好きですね。クリエイターには、こだわるタイプと、そうでもないタイプがいて、基本的に「こだわるタイプ」が賞賛されますが、ジブンは残念なことに後者です(笑)。常に二番手三番手タイプなので、一番上手い人と組んでお願いする方が向いている人です。上がってきたモノの一番最初に楽しむ「視聴者的目線」です。

イメージもぜったいコレじゃなきゃダメというのではなく、コンセプトを伝えてお願いして、上がってきたものに感心したり楽しんだりするのがスキなんです。それに、ぜんぜん知らない人と仕事するのも好きなんですよ。ネットでいいもの作っている人見つけたら、とりあえず頼んでみます。地方のクリエイターさまで、10年以上仕事しているのに1回も会ったことない人もいます(笑)。
若手の人へのメッセージ
--CGクリエイティブを取り巻く環境、これからCGやりたい人へ一言お願いします。
うもと : どうなんでしょうね。3D CG自体高度になってきているので、半端なテクニックはもう通用しないし、会社にも入れない。ポートフォリオも結構なものを用意しなければいけないし、新しく出てきたZBrushのようなスカルプティングも覚えなきゃいけなくし。覚えることがたくさんありすぎですよね(笑)。

それでも、やりたいことをやっていくしかないかもしれない。やりたいことやってチャンスをつかんでいくしかないんでしょうねえ。

今はCGクリエイターの募集は多いですよね。チャンスは多そうですよね。ただCGも専門職になってきているから、RIGだけとか、ライティングだけとか、オペレーター的な仕事もあるでしょうし、自分が何を作りたいかをはっきりさせることが大事かもしれません。

さらに、CGだけやりたいのか、そのさらに先をやりたいのか。職人さんなのか、作家なのか、など自分自身の適性を決めなければいけないでしょうねえ。

社会派な? オリジナルアニメ「チョップ☆スティック」なども積極的に制作する。

--自分自身の資質に問いかけることが大事ですね。
うもと : ある程度の最善の道はあると思うんです。3Dでアニメーションやりたかったら、3D CGを覚えるんじゃなくて、はじめにアニメを学んだ方がいいとか。オリジナルを作りたいなど作家志望であれば、どんどん作品作ってコンテストに出すとか。

今はわりとチャンスは広がっていて、垣根もスゴク低くなっていると思います。PCやソフトも自分が始めた頃より今は断然安いですから。

自分自身はDirectorやLightwaveで、なんでもできる環境を得たことが大きかったですね。音楽とグラフィックという、自分の資質で作品を作ることができる道具を得たということですね。
ただその垣根が低くなった分、競争相手は多いですから、新しい”ブルーオーシャン”を常に探してほしいです。そして、いったんこの世界に入ってしまえば、自分の場所が見つかると思うので、友だち、知り合いからいろいろなことを吸収して、次の展開を探していけばいいんじゃないでしょうか。今はインターネットがあるから、会社の中や周りの人以外の人ともコミュニケーションできますし。

難しいですけれど、まあ、なんとでもなりますよ。チャンスをいかにつかむかが大切じゃないかな。結局、自分が何を行うべきか、行いたいのか? ナニが得意で、ナニが出来ないのか? そういう自己分析とか自分プロデュースできる人は強いんじゃないでしょうか。

好きなことを追いかけることが大切だと思うのですが、ただ、いつ花開くかは本人にも分からないので、辛い思いを重ねても、腐らず続けるしかないのかなって(笑)。
--ありがとうございました。

(2014年11月10日更新)

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