●カメラ業界の転換期
私が手にした最初のカメラは、修学旅行で使ったインスタントのフィルムカメラだった。覚えているのはそのくらいで、それ以降の記憶では、デジタルカメラを使っていた気がする。そう考えると、物心がついた時の私はフィルムカメラからデジタルカメラの転換期を生きていたように思う。
今、同じような変化がAIを中心に起きている。「AIがあればカメラマンは必要ないのでは?」そんな話をよく聞くようになった。正直なところ、AIの精度が高くなってきていることは確かだと思う。そんな中で、カメラマンとしての私にはどのような存在価値があるのだろう、と考えることが多くなった。
シンメトリーな照明のため生成AIにて修正。(クリックで拡大)。 |
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左の写真の編集画面。(クリックで拡大)。 |
●カメラもAIも、どちらも手段
今の時代では、私たちは「カメラだけで写真を撮っている」わけではない。たとえば、画像編集やレタッチにAIの力を借りることは、かなり一般的になっている。カメラを使って仕事をする私のような人間には尚更で、AIを使わないという選択肢はほとんどない。それは、AIを使わない場合よりも、時間効率が良かったり、一部ではクオリティが向上したりするからだ。
かといって、すべてをAIに頼っているかというと、そういうわけでもない。これだけ日常的にAIを使っていても、カメラマンである私自身の目や感覚を頼りにする割合はまだまだ大きい。AIの出したアウトプットに対して、私が手放しに採用する事例もほとんどない。つまり、カメラマンとAIが両立して私の仕事が成り立っている。こうした事例を引き合いに出すと、「AIがカメラマンに取って代わるのか?」という問い自体が、ナンセンスではないだろうかと思う。
最終的に重要なのは、目的に合った結果を生み出せるかどうかで、「カメラマンの感覚」も「AI」も、目的のための手段に過ぎないのではないか、と。
プロダクト撮影において現場での無駄な物をAIにて消去。(クリックで拡大)。 |
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左の写真の別の作例。(クリックで拡大)
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●テクノロジーの変化にどう向き合うか
現代に押し寄せているAIの波と同じようなことが、ひと昔前にも起きている。それは、冒頭に話したフィルムカメラからデジタルカメラへの転換だ。
かつて、フィルムカメラとデジタルカメラの間に二項対立があったが、この構造は、カメラマンとAIの関係にも同じことが言えないだろうか。フィルムカメラを使っていた人々にとって、デジタルカメラは得体の知れない、取って代わろうとするモノに見えていたのではないか。カメラに限らず、新しい潮流を恐れ対立する傾向は、人の歴史にはよく見られることだ。
AIが仕事を奪うのではないか、カメラマンとしての自分が否定されるのではないか、という不安が広がっているのも、同じ構造の中にあるように感じる。しかし、今、フィルムカメラとデジタルカメラは、完全にどちらかがいいというわけでもなく、その目的によって使い分けられ、共生の体制を敷いている。
そして、先に話したように私の仕事では「カメラマンとしての自身」と「AI」が目的によって切り替わりながら、その力を発揮し合っている。
ガラスの写り込みをAIにて修正。(クリックで拡大)。 |
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同じくガラスの写り込みをAIで修正。(クリックで拡大)
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●結論:AIを拒むより、活用する
AIを恐れるよりも、どう使いこなすかを考えることが、これからの時代に必要だと思う。私自身、AIを活用して効率を上げ、より良い作品を生み出すことができるようになった。これから先、AIがさらに発展して、もっと大きな役割を果たすようになるかもしれない。しかし、最終的にそれを使いこなし、写真を作り出すのがカメラマンだと私は信じている。
エアコンなどの空間の雰囲気を壊す物を消去。(クリックで拡大)。 |
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こちらも雰囲気を壊す物を消去した作例。(クリックで拡大)。 |
次回のコラムは濱本観月さんの予定です。
(2024年11月7日更新)
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