▲撮影を拒否した父親。撮影機材:マミヤ7+マミヤN 80mm F4L。撮影地:中国・山西省 太原。以下同。(クリックで拡大)
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▲故郷に住む人。(クリックで拡大)
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▲新たに建設される高級マンション。(クリックで拡大)
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●記憶から撮りはじめた作品
私たちが何かを思い出すとき、何らかの意味付けをして、記憶の再構成をする傾向がある。その時、事実の内容が歪んでしまうことがある。個人の記憶そのものには真実性がないと思う。言い換えると、人々による記憶は、作り直されるもの、再構成されるものだろう。
写真は記憶を呼び起こす媒体、手段である。人々は写真を撮ることによって、記憶を残し、保存することができる。過去の写真を見て、記憶を呼び起こし、新たな記憶を再構成する。写真は記憶を蓄積·再現するもっとも良い手段の1つであると思う。
私自身が制作している『時間の風、そのまま』というシリーズは、時間を議論する作品であり、記憶が制作の出発点の作品でもある。私は精神障害のある父と故郷を撮影することで、私が持っている父と故郷についての記憶と、父が持っている私と故郷についての記憶というパラレルな存在を手がかりにして、故郷とそこで生活している人を撮影した。
パラレルとは、2つの物事の状態・変化・傾向などが平行で相似の関係にあることだ。精神障害のある父の物事に対する状態を想像して可視化するために、家にある古い家庭写真を利用し、コンピュータ合成も用いながら表現した。その一方、特別な加工をしない撮り方で自分は故郷や家族に対する考えについても表現した。
人それぞれの成長経験は違うが、文化の背景には多少の共通性があると考え、この作品は無数の家族の縮図を映し出し、自身の影が映っていると信じている。鑑賞者はこの作品を観ることで、私の故郷や家庭だけではなく、変化する環境の下で暮らす多くの人々の記憶を呼び起こすかもしれない。
例えば、私の父のように病気になった人。あるいは私の母のように、家庭の異変を経て逃げようとしたが、道徳的な枷のために「親密な関係」を維持せざるをえなかった人。皆、普遍的な「個人」なのかもしれない。私の故郷、家族に対する個人的な記憶を1つの切り口として、より多くの共感を呼び起こしたい。
この作品を通じて、私は消えてしまった記憶を訪ね始めた。私が忘れられていた領域に入っていくと、記憶の中にある多くの手がかりが再び現れて、再び元に戻り、非常に明確になった。その過程で、私の個人的な感情のため、この記憶自体は歪んで、真実ではないといってもよいと思う。
次回は魏 子涵さんです。
(2021年2月15日更新)
●連載「女子フォトグラファーの眼差し」のバックナンバー
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