▲コザの街で知り合った友人カップル。使用機材:NIKON FM2 レンズ35m/50m、Film Kodak SW100、フィルタ ケンコ-w4 |
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●南の街で
20代の後半、私は沖縄のある街にいた。本島中部の街、通称「コザ」と呼ばれる街だ。沖縄を写真作品として撮ろうと思いたち、島に旅だったのは26歳の時だった。私の母方の祖父母は共に沖縄の北部、今帰仁村の出身で、戦後、本土に移住して母は大阪で、いわゆる、大阪ウチナンチュ-二世として生まれ育った。そんな家庭の背景もあり、私にとっては沖縄の人々の生活習慣や食文化は、身近にあったのだが、沖縄には高校生の時に友達との自由旅行で初めて訪れた。高校生の時に初めて見た沖縄は、青い海と白い砂浜が美しく、島人の顔つきは母や親戚とそっくりで、まさに自分の母とその親戚のその地と血のル-ツをまざまざと見る思いがした。また島にはフェンスに囲まれた巨大な米軍基地があり、教科書にはない、この島のたどってきた悲しい歴史もそのときに知った。
沖縄の撮影の当初は、親戚たちの住む島の北部にある集落を撮ろうと考え、そちらに滞在していた。しかし、静かな集落で農業を営む高齢の親戚の暮らしが、まだ若かった当寺の私には、退屈でしかなく、1週間ほどで耐え切れずに飛び出してしまった。そして考えた末、写真学校時代の後輩が、先に住み着いていたコザの部屋に転がりこむことした。今では、コザの街は再開発され、歓楽街も商店街も寂れきった街になってしまっているが、アメリカの統治下時代から、よくもわるくも基地の影響を受けて発展した街であるコザは、英文字の看板がまだいくつも残っており、そのアメリカナイズされた独特の雰囲気に魅かれた。その異文化の交じり合う街で育った同世代の若者たちは、内地の流行とは違う個性的なファッションや遊びを身につけていて、独特の個性を放ちかっこよく感じた。
その彼らも、今は中年になり親になり、一緒に夜明けまで遊びながら撮影していた当時をなつかしくも思う。最近のコザの街も写真の記憶を頼りに歩くと、その様変わりした姿に驚いてしまう。しかし写真の記憶と記録という特性によって、時間を経てむしろ輝き、そこにあったことも、その愛おしさも私の中で色あせることはない。今も写真として確かに存在していることに驚くのだ。人も街もすべて、時間とともに、少しづつその様を変えていく。変わらないのはこの空の光と、今を生きている、ということだけなのかもしれない、と思う。
次回は北田瑞絵さんです。
(2018年3月8日更新)
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