▲魚は見えなくても光の存在には気づけた海。写ルンです (クリックで拡大) |
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▲私が触れなければまだ溶けずにいたはずの氷。写ルンです (クリックで拡大) |
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▲静けさの前を横切るスマホの光の残像。iPhone 13mini (クリックで拡大) |
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▲日常から逃げた先に辿り着いた湖畔。Nikon Coolpix S10 (クリックで拡大)
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▲東京の交差点ですれ違う人のような魚たち。iPhone 13mini (クリックで拡大)
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前を向かなければいけないのだろうか。
ままならない毎日だった。恵まれた環境で生活していた。日常などいらないと嘆いていた。新しい靴を履けば下を向いて歩くのが正解で、たくさん歩けば視線は自然と行方を見失った。
路上でtiktokを撮る若者を煩わしく思い、誰かの笑い声に耳を塞いでいた。
人と協力することは苦手だったけど、人と関わることは好きな方だった。
考えすぎないことを考えすぎていた。
他人からもらった自分のイメージをなるべく自分が合わせて過ごすようになった。
そんなことを重ねていくうちに自分のことが分からなくなっていた。
私はここにいるという自覚と錯覚を繰り返し、たった1文字の助詞の使い分けに心を曇らしていた。いつの間にか目は悔し涙でいっぱいになっていた。
入り混じった感情の狭間で言語化できない気持ちが積もり、日常から距離をとるべく約120km、2時間40分の距離を車を使って移動した。訪れた先は、山々が青色に見えるほど空気が澄み、日本一の山を一望できるとして謳われるキャンプ場だった。天気予報は晴れのち曇り。
いま私の目の前には壮大な山と静かな湖、さらには、水面に波紋をたてながら踊り狂う外国人とかけがえのない時間を過ごし笑い合う知らない家族の姿がある。それを見ている私がいる。
なぜだか日常の中で煩わしいと感じていたことのすべてが、宝物のように思えた。帰路に着く頃にはちゃんと帰ってきたという感情を持った。私はここにいる。
そんなコラムをつらつらとスマホのメモに残しては消していた。取り留めのない言葉が募るほど、伝えたいことなどないように感じる。
そんなある日に祖母が他界した。
育ての親とも言える存在の祖母の見慣れない姿に、手を握ることすらできなかった。これまでにしたことのない行動を不在を目前に行うことに辻褄を合わせることができず、手を伸ばすことができなかった。
彼女のことを、その存在を、綴ろうと思うには今の私にはあまりにも日常が足りない。
祖母との日々を語れること、それが私が日常ときちんと向き合えたということにもなるのかもしれない。いまはただ、2つの不在をいつか前を向いて誰かに語れることを願っている。
次回は後藤友里さんです。
(2025年1月15日更新)
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