▲中高の制服の袖口のボタン(写っている期限切れのパスポートは「さすがに大事じゃない?」と思って捨てられなかった)。(クリックで拡大)
写真はすべてiPhone12 MaxProで撮影。 |
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▲コラージュ用にと綺麗にファイリングしてあった包み紙たち。(クリックで拡大) |
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▲すべて捨てるわけではないけれど、この色合い・並びのクローゼットはもう見られない。(クリックで拡大) |
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●部屋の片付けをした
私は片付けが何より苦手で、人生で部屋が綺麗だったことがない。しかしこうして、たまに重い腰を上げてみたりする。
大掃除や引越しをするたびに、ものすごい数のゴミ袋を捨てるが、それはつまり何度捨ててもたくさんものが増えているということになる。ものが循環せず溜まっていくのは月並みの理由で、いつか使う時が来そうだから、と、覚えておきたい思い出にまつわるから。
スマホを持つようになって(私は同世代と比べて遅く、19歳の時に初めてスマホユーザーになった)、忘れないように残しておくための写真から「忘れてもいいように」撮る写真の量が増えたが、少しの思い出に価値を見出してものが捨てられないことと、忘れるために写真を撮ることはどこか似ているような気がすると思った。似ているというか、より効率的にコンパクトにしたものが私を含む現代人における日常的な写真なのではないだろうか。
今回は日常的で気楽かつ作品としての体も持ったものを撮ろうと考えて、普段の制作と日常の違いがあるのか、あるとしたらそれはどこなのか考えた。私は制作をするとき、思い出や感情を意識的に遠ざけてシャッターを切る。形や色、「存在」だけに集中する。
その作業は、私の部屋に溜まる誰かにもらった紙切れや、スマホのアルバムで容量を圧迫する写真と対局にあるように思った。そこで、引っ越しても大掃除をしても捨てられずに私の部屋に存在し続けたものたちをスマホで撮り、作品とし、捨ててみることにした。
作品を撮るというより片付けをすることを目的に進めていたが、感情や思い出に直接関わるものを撮った結果として、自分では思ったより感情は見えなかったと感じた。人の表情、他人との関わりや年季が表面に分かりやすく現れていないせいだろうか。
掴ませようとして、掴めないものができた。こんな選択、表現、距離感が私らしさなのかもしれない。
次回は小田理世さんです。
(2024年1月10日更新)
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