●「のようなもの」
今年に入り、AIで画像を生成する遊びを始めた。科学やテクノロジーなどには関心があり、2019年には「進化」をテーマに作品制作もしている。
以前から話題になっていたジェネレーティブAIが、実際にどんなプロセスでどんなことができるのか知りたくなってやってみたわけだが、すっかりハマってしまった。慣れは必要だが、狙った通りのものができたり逆に想像を超えたものができたりと実に楽しい。
テキストや単語などで指示する情報をプロンプトといい、プロンプトを入力し終えたら、あとはEnterを押すだけでその言葉や内容をAIが解釈し自動生成するという流れだ。生成はランダムなので同じ内容でも結果が大きく変わったりするのでそこが良いところだと思う。この生成AIでは音楽やイラスト、画像、動画、プログラムコード、文章など多岐にわたり生成できるが、私は特に"写真"に注力している。
人間では思い付かないのでは? というようなデザインやシチュエーション、実際には撮れそうもないものを生成することもあり、その辺りのAIならではのところも面白い。だが私は、できるだけデジタル感やAIぽさがない方がより写真らしくなると考えているので、それがどうすればできるのかを試行錯誤しているところだ。
ここで写真らしさとは何か? みたいなことになってしまうのだが、それは一旦置いておいて、生成AIには傾向みたいなものがあるので、それがあまり感じられないものとしている。
特に意識しているのはアナログ感や綺麗過ぎないこと、ナチュラルさといったところだ。本物っぽさを感じられるよう、写真という先入観や撮影されたものという認識を少しでも強調するにはどうすれば良いのか、アウトプットの方法も重要である。
モノ感やフィルムの風味を感じられるチェキでプリントアウトするという方法を取ってみたが、現行の製品では仕様で露光に難があり作品としては厳しく、変更を余儀なくされて思案しているところだ。
写真家ができることは、写真そのものがもたらすものよりはるかに乏しく、例えばセレクトや見せ方など選択の連続によるちょっとした先入観・思考の操作や誘導、排除だと思っている。
▲すべてMidjourneyでAI自動生成したもの(クリックで拡大) |
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実際に私が生成した一部がこのポートレート写真だ。
広告、雑誌などにありそうなもの、表情や雰囲気を感じるもの、甘いピントや精細ではないフィルムに近いものなどを選んでみた。普段写真に関わっておらず、生成AIのこともあまり知らない人であれば、違和感なく写真として見る人も多いと思う。
ポートレートでは外見や表情、被写体との関係、距離感、場所、光の具合などを情報として読み取ったりする。モノクロであれば粒状感やコントラストも重要な要素だ。これに関してもそうした行為をしようとするが、生成画像であるから意味がなく一切が否定される。
散々写真と言ってきたが実際にはただの画像であり"ポートレート写真のようなもの"だ。
存在しない架空の人物、作られた設定、撮影すらしていない単なるピクセルの集合から読み取れるものなど何もなく、読み取れたと感じたとしたらそれは観るもの自身の想像や経験、認識などをそこに投影したものだろう。もしかすると撮影された写真を観た時も、読み取っているつもりでも実際にはそうした自身の投影のウェイトが思っているより大きいのかもしれないと感じた。
私は過去作の『憂鬱のシンデレラ』において、被写体のミステリアスな要素を活かすため"分からなさ"を重要視して情報の抽象化を図った。"分からなさ"が想像する余地を与え面白さにつながると思ったわけだが、厳密には「写ったものから分かること」「写っていない分からない部分」「観る者に内在するもの」それらのバランスだったり、その絶妙な心地よさやなんとも言えない浮遊感などが、写真における引力や面白さのようなことでもあるように思う。
そうみるとこのポートレート写真のような、ただの生成画像も成分バランスは大きく違えど、写真のように観て楽しむことができるわけだ。何度見ても無意識に読み取ろうと、何かを感じ取れるような気がしてしまいその度に突き返されてしまうのだが、そのループ自体が面白いと私なんかは思ってしまっている。
読み取ろうとせず想像に任せ、ストーリーを勝手に作りながら見るのも良いと思う。写真であることとは? ポートレートとは? 写真の情報とは? など、写真家にとってはいろいろなことを改めて考えさせてくれる代物だ。
今回のものはシンプルなイメージであったが、他の作家の作品では社会性やメッセージ性のあるものだったり、さまざまな示唆に富んだものもあるかもしれない。それらを観た時に写真ではないからといって一蹴するのではなく、それらをどう観て何を考えるかということを大事にして欲しい。
▲ともにFujifilm GFX100S(GF63mm F2.8 R WR)(クリックで拡大) |
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▲(クリックで拡大) |
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次の写真は私が実際に撮影した写真である。
歌舞伎町で見つけた花壇とミヤシタパーク内の観葉植物で、スナップ感覚で何気なくいいなと思ってパパッと撮影したものだ。どちらも2、3枚撮って少し角度や距離感を変えて撮影しようと近づいた時に初めて偽物だと気が付いた。
花壇に関しては、場所が場所だけに、歌舞伎町という街を象徴しているように思えてすごく気に入っている。歌舞伎町は東京へ来た際によく撮影していて、もし写真集にするなら表紙にしたいくらいの写真だ。この造花やフェイクグリーンたちは、至る所でさも当たり前に、本物のように堂々と存在している。
必要とされたからここにいるという大義を見せつけられているようだ。求められるものが実物のそれではなく、それが持つ情報やもたらされる感覚、利便性などになり、時代とともに要素が変わったことで大繁殖している。そうして本物の植物はどこかに追いやられ"植物のようなもの"がすり替わって自然の場と気持ちいいくらいに混ざり合い馴染んでいる。
フェイクとリアルとが共存していて、もはやそれも含めてリアルと化している。それらが昨今のデジタル技術、AIの進化やAR、VR、MRのような現実と仮想が溶け合っている様子と重なって見えて、大袈裟だが今の世界の有様を表しているようにさえ感じた。
捉えたものが本物か偽物かどちらであれ、その光景に私が惹かれたことに間違いはなく、その感覚はそのまま受け入れれば良いと思っている。本物でなくともそれにはそれの美しさや趣きがある。それに、そうしたものは受け入れて楽しんだ者勝ちだとも思う。その中からきっと新しい価値観や見方が生まれて、文化・社会といったものは再構築されていくのだろう。
次回は坂本陽さんです。
(2023年9月7日更新)
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