▲Treatise on Light_NE4790。(クリックで拡大)
使用カメラ:すべてNikon D800、撮影年:2018年~2019年 |
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▲Treatise on Light_NE4980。(クリックで拡大)
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▲Treatise on Llight_NE5605。(クリックで拡大)
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▲Treatise on Light_NE7316。(クリックで拡大)
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▲Treatise on Light_NE7459。(クリックで拡大)
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▲Treatise on Light_NE8990。(クリックで拡大)
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▲Treatise on Light_NE9026。(クリックで拡大)
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●写真について
デジタルカメラは、一瞬しか立ち会えないその時の光を、とりあえず記憶にとどめるためのメモのような装置だと思っている。そうして見た光の中で、もう一度見たいと願う光を、フィルムカメラを携えて撮りに戻る。ただし、原理的に同じ光にはもう二度と出会うことはないのだから、撮りに戻ったところでその作業は徒労に終わることが多い。けれど、分かっていても、結果を見るまでは、それを見ないわけにはいかない。次にどんな風景が広がるのか、たとえそれが予想していたものと違っていても、その先を見るために、傍らに私はカメラを持つ。
そうして長い年月写真と過ごしていると、いつしか光が自分の手のうちに舞い降りるような錯覚を覚えるようになった。もちろん本当は知っている。光を持つことはできないと。光は、一処にとどめることはできないエネルギーであり、私には理解し得ない途方もない現象である。けれど、持つことをあたかも可能にさせるような感覚を、写真は与えてくれるメディアである。
光を受けて物質が変化し、それを突き抜けた光が暗闇でイメージを固化させる。光によって作られる一連の作用は、すなわち光の通った道であり、痕跡であり、最終的に行き着く場所のようである。それが昔からの光が、巡り巡って、まるでいま手元にある紙や物体に落ち込んで、そこに眠っていくように感じさせるのだ。しかし、本当はそうではない。そうした光さえも、そこを通過して、エネルギーはさらなる場所に向かって行く。
光は新しいものを生み出すエネルギーである一方で、容赦なく事物を破壊する。そうした光の作用は、言うまでもなくこの地球上で多くのものを生み出し、壊してきた。もちろん写真も同じで、光によって生み出されると同時に、それによって消滅もしくは劣化していく本質を持つものが多い。でも、そういうところ含めて、光と写真という現象は面白く、それについてとりとめもなく考えて、形にしていくと、私のような作品となる。
写真とはなんだろう。その問いに向かい続けていたら、こんな歳になってしまった。さまざまに向く興味に従ってここまできてしまったおかげで、まだ何者にもなれていないことに愕然とするけれど、常に写真という軸が変わらなかったのは、私のささやかな誇りである。
いつか何者かになれる日が来るのだろうか。
この問いの答えを見るためには、若い頃と変わってきた身体と手を組んで、もう少し進んでみなければならない。
コレクション・ハイライト+コレクション・リレーションズ
[村上友重+黒田大スケ:広島を視る]2023年7月1日(土) — 11月12日(日)
https://www.hiroshima-moca.jp/exhibition/collection2023-1
次回はフジモリメグミさんです。
(2023年7月12日更新)
●連載「女子フォトグラファーの眼差し」のバックナンバー
第33回~
第1回~第32回
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