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神が潜むデザイン


第25回:あたり前と見える書 ―― 高村光太郎の書をめぐって/華雪


「神は細部に宿る」と言いますが、本コラムでは、デザイナーがこれまでに「神」を感じた作品を紹介していただくとともに、ご自身のこだわりを語っていただきます。リレーコラムですので、執筆者には次の方にバトンを渡していただきます。




写真:志鎌康平

Designer FILE 25

華雪(かせつ)書家。1975年、京都府生まれ。立命館大学文学部哲学科心理学専攻卒業。1992年より個展を中心に活動。幼い頃に漢文学者・白川静の漢字字典に触れたことで漢字のなりたちや意味に興味を持つ。文字の成り立ちを綿密にリサーチし、現代の事象との交錯を漢字一文字として表現する作品づくりに取り組むほか、〈文字を使った表現の可能性を探る〉ことを主題に、国内外でワークショップを開催する。刊行物に『ATO跡』(between the books)、『書の棲処』(赤々舎)など。作家活動の他に『コレクション 戦争×文学』(集英社)、伊集院静『羊の目』(文藝春秋)、円城塔『文字渦』(新潮社)をはじめ、書籍の題字なども多く手掛ける。作品収蔵先:高橋コレクション(東京)、ヴァンジ彫刻庭園美術館(静岡)、うつわ菜の花(神奈川)など。

Instagram:@kasetsu_sho


高村光太郎の書を見たのは、高校生の頃に書の先生の稽古場にあった雑誌『墨』をめくっていたときだったと思う。先生が面白いと言って見せてくれたのか、自分が本棚で見つけたのかは忘れてしまった。

ただ、その書の静かで強い佇まいが印象に深く残った。


雑誌『墨―特集 高村光太郎 書とその造形』(芸術新聞社、1985年3月号)
 



子どものときから通っていた書の教室は、わたしが中学生になる頃には他の生徒がいなくなり、先生とのマンツーマンの稽古になった。

週に一度の稽古は古典の臨書(摸写)が基本だった。ただ一般の書道教室と違っていたのは、先生が「書き方」を教えてくれないことだった。中国の書の歴史をまとめた『書の歴史』を元に、どれを臨書するかのか先生と相談し、資料を傍らに自分の眼で観察して書き始める。

先生はわたしが書く様子をじっと見ている。それが稽古だった。自分で考え、選び、試す。不安がよぎって先生の様子をちらっと見ると、相変わらずわたしの手元をじっと見つめる視線に出合う。時々「今書いたのは、ちょっと置いておこうか」と先生は傍らによせる。唯一それが自分が何かを掴んでいると確認できることだった。

思い返すと、自分の考えを能動的に試すことのできた先生との稽古場での時間は、知らず知らずのうちに中国の文字造形の歴史を俯瞰し、それを実際に書いてみることを通じ、歴史的な文字造形の変遷を学んでいた時間だった。


伏見 冲敬 著『書の歴史』(二玄社、1960年)

「書の歴史」の中面



高村光太郎の書を初めて見たのは、臨書の稽古もずいぶん重ねたときだった。まず感じたのはその書の持つ他にはない際立った立体感だった。

中国に伝わるよい筆遣いの例えに、紙を砂浜に見立て、砂に溝を刻むような意識で筆を動かせというものがある。高村の書はまさにその例えが目の前に現れたかのようだった。彼は「書について」という随筆でこんなふうに語っている。

「書を究めるということは造形意識を養うことであり、この世の造形美に眼を開くことである。書が真にわかれば、絵画も彫刻も建築もわかる筈であり、文章の構成、生活の機構にもおのずから通じて来ねばならない。書だけわかって他のものはわからないというのは、わかり方が浅いに外なるまい。書がその人の人となりを語るということも、その人の人としてのわかり方が書に反映するからであろう」(「書について」『高村光太郎全集 第五巻』筑摩書房、1957年)。

高村の書には、そこに彼がこれまでどんな書を学んできたのかを感じる。そして、その書は読み易く、見る人・読む人に開かれたものを感じる。


北川太一著『高村光太郎ーー書の深淵』(二玄社、1999年)

「書の深淵」の中面



デザインの現場で書を求められるときにも高村のことばを思い出す。ここにある高村の「自戒」を、わたしも戒めと思いながら繰り返し読んできた。

「書はあたり前と見えるのがよいと思う。無理と無駄との無いのがいいと思う。力が内にこもっていて騒がないのがいいと思う。悪筆は大抵余計な努力をしている。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のような立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。書道興って悪筆天下に満ちるの観があるので自戒のため此を書きつけて置く」(「書について」『高村光太郎全集 第五巻』筑摩書房、1957年)。

高村のことばが指すような書を求められていると感じる仕事の依頼を一昨年いただいた。

工藝と喫茶を取り扱う店名の揮毫(きごう)だった。古い蔵を改装したお店の名前は「物華」。店名の「華」には〈本質〉や〈真髄〉という意味が含まれていると店主から教わった。

店名の書は、「空間に溶け込むような、不規則なテクスチャの土壁にあたる、柔らかな光のように、その場の空気と気配に馴染む」ものにしたいとの依頼だった。その上で、自由に書いてくださいとも伝えられた。

10点ほどのスケッチを書いたのち、方向性を絞り、さらに6点ほど新たに書いた。店主は半年かけ、ひとつを選ばれた。書が「その場の空気と気配に馴染む」かどうかを確かめる時間だったのだと、今となってはわかる。それから3年が過ぎ、店舗は別の蔵へと移転し、一層落ちついた空間となり再出発した。

先日、ようやく店に伺うと、引き戸の入口に真っ白の磁器の表札が掛かっていた。真新しい表札に「物華」の書が漆黒で刻まれている。その小さくもはっきりと目に留まる表札を眺めながら、かつて店主から伝えられた「その場の空気と気配に馴染む」書がどういうものなのか、そして「書はあたり前と見えるのがよいと思う。無理と無駄との無いのがいいと思う」と語った高村のことばを思い返していた。


書「物華」(2019年)(クリックで拡大)

「物華」表札(クリックで拡大)





次回は江藤公昭さんの予定です。
(2022年11
月2日更新)

 

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