●インディーカルチャーが好きだった
作りかけの(に見えるような)ものが好きだ。絵で言うと描き途中のようなものとも言える。場合によっては「雑」という言葉がつくものごと。大胆な余白があったり、インクがかすれていたりすると嬉しくなる。ただし、発展途上のものを愛するというのとは少し違う。「ここで完成です」という判断が作り手にあるものが良い。受け手の判断はあくまでも不要なのだ。ほとんど自分の都合で「これでどうだい?」とボールを投げてくるような感覚に、いつもワクワクさせられる。
子ども時代が1970年代、思春期が1980年代。美大生~駆け出し時代を1990年代前半に過ごしてきた中で、ずっとインディーカルチャーが好きだった。これはもう性格でしかないのかもしれないけれど、主流から外れていたいと言うか、まだ今のように細分化されていないマスの文化があったので、カウンターカルチャーやサブカルチャーというものも存在していた。
そして、それらには印刷物があった。レコードジャケットやイベントのチラシ。ファンジンや同人誌。丁寧に刷られるシルクスクリーンプリントから、安価でできるコピー印刷。今ではレトロ印刷と呼ばれるリソグラフのようなものもゴロゴロしていた時代である。予算の限られた中で工夫をする。趣味の手作りではない。切羽詰まったD.I.Yに情熱といくばくかの「もしかしたら売れて金儲けができるかもしれない」という野望がある。
●「雑」って何だろう?
1980年代イギリスインディーのレコードジャケット(写真1)。解像度の足りていない写真や、手書きのままのタイポグラフィー。大概がメンバーかその家族か友人が描く、珠玉のドローイングやペインティング。ザラザラの質感は、単純に予算も技術も足らないことからなのだろうけれど、質感と音、ムーブメント全体に流れる空気感とが密接に結びついている。もちろん、いくばくかの反抗精神とともに
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ここまで音とビジュアルが結びついたシーンって実はあんまりないかも? と思う。
写真1:80年代インディーシーンのレコード。(クリックで拡大) |
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こちらは近年のインディーシーンのアートワーク(写真2)。肌感覚がほとんど変わってない(ように見える)ところに驚かされる。しかも、これらのものが流通に乗って、場合によってはAppleの企業広告のBGMに使われちゃうようなことだって起きる。それは日本でよく出てくるキーワードの冷笑主義や露悪趣味に基づいた制作物ではないからだ。マスだろうがインディーだろうが、お互い本気なところにとても惹かれる。
雑って何だろう。誰が決めること?
写真2:最近の海外インディーシーンのアートワーク。(クリックで拡大)
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最近、私がコピー機でZINEを作っている様子をみて、「雑!」とデザイナーの若い友人が悲鳴をあげた。「雑」の基準をどこに持ってくる? 欧米では、今でも普通にコピー誌のZINEやシルクスクリーンで剃られた印刷物が普通に存在していて(写真3)、いくらでも手に入る。リソグラフも海外からの逆輸入のブームなのではないのかな、と思っている。
日本では、個人でも小ロットで技術の高い印刷物が作ることができるし、さまざまなニーズに対応し、CMYKではなくPCの画面通りの再現に応えてくれるようにもなっている。きっちりと工業製品のように仕上がってくる印刷物。だからといって面白い制作物が増えていることとはあまり結びついてはいないと個人的には思っている。簡易化や合理化のベクトルが日本とは違うのだと思わせられる瞬間。
写真3:コピーで作られたZINEいろいろ。(クリックで拡大)) |
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ちなみに。私が作ったコピー誌のZINE(写真4:左)だが、雑に作業していたわけではない。1ミリ、2ミリのズレを気にしなかっただけ。後で切っちゃえばいいし……。この文章に出てきた作品もすべてそう。「雑」なものなどは1つもないのです。
写真4:自作のZINE。(クリックで拡大) |
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次回は中村至男さんの予定です。
(第7回大原大次郎さんのコラムは完成次第公開いたします)
(2021年1月12日更新) |